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    房一は刃物で突く恰好をしてみせた。

    「はあ、なるほど」

    その患者といふ言葉を、まだ云ひ慣れないために特別な発音をしながら、盛子はあわてて房一に声をかけた。

    だが、その幾日かも過ぎると、又あの、恐るべき変化を蔵しながら一見何一つ変つたこともないと感じさせる、単調な何気ない日々がつゞいた。何かしらはつきりし、又何かしらとりとめもなく、空は冷い輝きを増し、山々の稜線はかつきりとし、葉の落ちつくした雑木山はずつと遠くのものまでが殆ど信じられないくらいの細かい枝を無数に目に見させ、ブラッシの毛並みのやうな渋い赤褐色をどこまでもどこまでも拡げていた。

    この時ふと、房一は、何故こんなに相沢が立入つて訊くのか、といふ疑ひを持つた。だが知り合ふとすぐまるで親類か何かのやうに世話を焼きたがる河原町の人達の癖は、房一も家の造作のときにも、その後にも一再ならず見て知つていた。

    日々は平凡に単調に過ぎて行つた。

    やうやく三十に手が届いたばかりだが、苦労したのとその無骨な外貌のために年齢よりは四つ五つ老けて見える。がつしりと人並外れて幅広い肩はむくれ上るやうに肉が盛り上つて、何だか猪首のやうな印象を与へた。

    これでは房一も後もどりしないではいられない。馬は今片耳を後に立て、時々それを動かせていた。それは見ているだけでも美しい生き物だつた。房一にはしなやかなだが強い張りのある首が疾駆の時にどんなに強く前傾し、どんなに直線的になるか、どんなに風を切り、どんなに躍動するか、まざまざと目に浮ぶやうであつた。

    一人は徳次で、もう一人は中肉中背の、だがそのやさしい女性的な顔立ちのためか、実際よりはうんと小柄に見える小谷吾郎といふ呉服雑貨店の主人だつた。彼の眼は黒瞳くろめがちで、やさしいうるほひがあつた。眉も恰好がよかつた。鼻筋もよく通つて、その下には稍やや肉感的な紅味のある唇が心持ふくらんで持上つていた。もしこの顔に、年配から来る自然の落ちつきと、どこか我儘な子供を思はせるやうな疳かんの強さといふ風なものがなかつたら、その女性的な顔立ちはきつと見る人に一種の悪感をかんを覚えさせたにちがひない。それに彼の声は細い疳高い響きを持つていた。

    うまい工合だと感じた房一はすかさず云つた。

    と、徳次は叮寧にならうとして一種奇妙な言葉づかひになりながら、

    看護婦がそつと上つて来た。

    「何んの。面倒だからこのまゝ行かう」

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