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    「やっぱり半之丞の子だったですな。瓜うり二つと言っても好よかったですから。」

    が、ぴんと張つた肩衣のためによけい幅広く見える後姿で、木箱のやうな沓くつをがたつかせ、戸外の明い日ざしの中でその紅い滲んだ紙色をまざまざと照し出されながら、歩いてゆく房一を見送つたときには、紛ふことなき珍妙さが、しかも「堂々」と歩いている形だつた。そして、百何十人もの老壮若の戸主達がこのばさばさした紙で着ふくれ、列をなして歩くときの様子は、まさに観物にちがひない、といふ実感を抱かせたのである。

    「いや、わしは出んぞ」と叫んだ。

    彼らは家の間まの一つを「商人宿」にしている。ここも按摩が住んでいるのである。この「宗さん」という按摩は浄瑠璃屋の常連の一人で、尺八も吹く。木地屋から聞こえて来る尺八は宗さんのひまでいる証拠である。

    「何だらう?」

    房一はまだ考へ深さうにしていた。

    しかしこんな田園詩イデイイルのなかにも生活の鉄則は横たわっている。彼らはなにも「白い手」の嘆賞のためにかくも見事に鎌を使っているのではない。「食えない!」それで村の二男や三男達はどこかよそへ出て行かなければならないのだ。ある者は半島の他の温泉場で板場になっている。ある者はトラックの運転手をしている。都会へ出て大工や指物師になっている者もある。杉や欅の出る土地柄だからだ。しかしこの百姓家の二男は東京へ出て新聞配達になった。真面目な青年だったそうだ。苦学というからには募集広告の講談社的な偽瞞にひっかかったのにちがいない。それにしても死ぬまで東京にいるとは!おそらく死に際の幻覚には目にたてて見る塵もない自分の家の前庭や、したたり集って来る苔の水が水晶のように美しい筧かけひの水溜りが彼を悲しませたであろう。

    と、房一が進み出た。

    殆どおたがひの鼻と鼻とがくつつきさうな位置のまゝ房一はいやでも相手の黒味がかつた眼玉と向き合はなければならなかつた。それはこつちを見ている間中、ちつとも目瞬またゝきをしないふしぎな眼玉だつた。その上、あんまりしつこく見られるので、嫌でも気づかずにはいられなかつたのだが、その黒味は何だか鼠のそれを思はせるやうな薄濁りのしたぼやけた黒味で、そいつが墨のにじんだみたいに眼玉中にひろがつているのである。房一は何かの本で、眼はその人の心を映す鏡だ、といふことを読んだことがある。別にそれを覚えていたわけではないが、その眼玉は一体何を考へているのか判らないやうな気が房一にはした。

    半之丞は誰に聞いて見ても、極ごく人の好いい男だった上に腕も相当にあったと言うことです。けれども半之丞に関する話はどれも多少可笑おかしいところを見ると、あるいはあらゆる大男並なみに総身そうみに智慧ちえが廻り兼ねと言う趣おもむきがあったのかも知れません。ちょっと本筋へはいる前にその一例を挙げておきましょう。わたしの宿の主人の話によれば、いつか凩こがらしの烈はげしい午後にこの温泉町を五十戸こばかり焼いた地方的大火のあった時のことです。半之丞はちょうど一里ばかり離れた「か」の字村のある家へ建前たてまえか何かに行っていました。が、この町が火事だと聞くが早いか、尻を端折はしょる間まも惜しいように「お」の字街道かいどうへ飛び出したそうです。するとある農家の前に栗毛くりげの馬が一匹繋つないである。それを見た半之丞は後あとで断ことわれば好いいとでも思ったのでしょう。いきなりその馬に跨またがって遮二無二しゃにむに街道を走り出しました。そこまでは勇ましかったのに違いありません。しかし馬は走り出したと思うと、たちまち麦畑へ飛びこみました。それから麦畑をぐるぐる廻る、鍵かぎの手に大根畑だいこんばたけを走り抜ける、蜜柑山みかんやまをまっ直すぐに駈かけ下おりる、――とうとうしまいには芋いもの穴の中へ大男の半之丞を振り落したまま、どこかへ行ってしまいました。こう言う災難に遇あったのですから、勿論火事などには間まに合いません。のみならず半之丞は傷だらけになり、這はうようにこの町へ帰って来ました。何なんでも後あとで聞いて見れば、それは誰も手のつけられぬ盲馬めくらうまだったと言うことです。

    と後を追ふと、徳次は

    「えゝ、このたびこちらへ戻りまして、仲通りに開業しました高間房一ですが、つきましては一寸御挨拶に――」

    と、舌ざはりの悪いものでも口にしたやうな調子で、練吉はぽつんと云つた。

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