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    房一は苦笑した。とにかく珍客にはちがひなかつた。そして、たつた今さつきまで房一は彼等のお見舞ひでわれ知らず興奮し、緊張し、それからあの半シャツの男と言葉の上でなく、眼と眼で、構へと構へでやりとりした、それが突風の去つた後のやうな軽いあつけなさを残していた。

    「おや、いつのまにそこに来てなさつたかね。お茶ですか、上げますとも」

    一方には盛子の妊娠があつた。それは気を痛めるやうなものではなかつたが、やはり房一の存在の奥深く喰ひこみ、そこに微妙な、ふしぎな目に見えない点を植ゑつけた。道平の病気は彼を動揺させた。この二つは房一にとつては切つても切れないものだつた。そして、そこには或る一つの脈絡と対比が、生れるものと去つてゆくものとが、今や動かしがたい明瞭な兆候となつて現れていた。それは今までたゞ一方的に無我夢中だつた房一をひよいと立ちどまらせ、彼をもあらゆるものをも抱きこんでいる大きな流れが、突然きらりとそのありのまゝの起伏、その横顔といつたものを見せたやうに思はれた。いや、見せただけではない、知らぬまに、予期せぬうちに、彼はまさしくその茫漠とした果しないものの中に身体ごと足を踏みこんでいるのを、彼のまだ考へたことのないあの人生といふものが疑ひもなく彼の上にはじまつているのを感じた。

    「な」の字さんもわたしも足を止めながら、思わず窓の中を覗のぞきこみました。その青年が片頬かたほおに手をやったなり、ペンが何かを動かしている姿は妙に我々には嬉しかったのです。しかしどうも世の中はうっかり感心も出来ません、二三歩先に立った宿の主人は眼鏡めがね越しに我々を振り返ると、いつか薄笑いを浮かべているのです。

    「はあ――ふむ、うちへもかね」

    奇妙な貸家で、だいたい差配というものは家主に使われているのが普通のはずであるが、ここはアベコベに、差配が伊東で一二を争う金持で、御殿のような大邸宅に住んでいる。家主の方も相当な洋館にいるが、差配にくらべると、月とスッポンである。差配は七十ぐらいの老人で、市会議員で、土建の社長だそうだ。

    「いや、そこまで確かなことにはしませんでしたが」

    明いうつとりするやうな午後であつた。房一はトラホーム患者の婆さんに処置をして帰した後で、そこらを片づけ、先づ一服といふところで不断かけ慣れた廻転椅子に腰を下し煙草をくゆらしはじめたものの、それもほんの一吸ひか二吸ひで、そのまゝぼんやりと戸口の方を眺めていた。いや、眺めていたといふのはあたらない。彼は別に何も見ているわけではなかつたから。が、とにかく、彼の目の向いている方には見慣れて、そのために見るといふ感じを起させない、あの高間医院といふ字を裏側から透すかし出した曇り硝子の二枚戸が片寄せになつて、そこに長方形のかつきりした戸口があり、それは宛かも節穴を通して眺める戸外が一種異様に鮮明に見えるのと同じ風に、その戸口からちやうど石畳の露地のやうになつた両側の築地塀と、そこで一所だけ区切られた表の道路、白い路面の輝き、その向ふに高まつた畑だの、そこに今は気早に黄ばんだ葉をつけ、その聞から紅味のさした円つこい実をのぞかせて、ぽつんと一本だけ立つている柿の木、だのいふ物を何となく鮮明に何となく際立つて見せていた。かう云ふと、読者はもう、房一が前にも何度かこゝであの廻転椅子に身をうづめ、眺めるともなく戸口を眺めかがらぼんやり考へごとをしたことがあるのを思ひ出されるだらう。

    今泉はうつむき気味に、すぐ前に坐つている庄谷の背中を見つめていた。するとその肩に一本の糸屑がくつついているのに気づいた。彼はそつと手を伸してつまみ上げた。庄谷はうしろをふり向いた。その白味の多い小さい目で無意味ににやりとした。そして又元の眠つたやうな無表情にかへつた。

    と手早く切り上げて、堂本の家を出た。

    「もうこんなに暗くなつているのにね、何してるんでせう」

    が、今夜は入口の大戸が開け放たれ、土間には打水がされ、眩まぶしいほどの電気で照し出され、絶えず出入りする人の気配と、土間づたひの台所の方から流れて来る何かの匂ひや湯気で温ぬくもつた空気のために、この広い店の間は何年か振りに息をふき返したやうであつた。店の間の突きあたりには美しい紅味を帯びた褐色の塗りのかゝつた造りつけの戸棚が四間の長さにわたつてどつしりと立つていた。それはこの何もない単調な部屋に一層重厚な装飾的効果を見せていたが、その上には更に鍵屋の定紋である下り藤のついた四角な箱がずらりと天井近くを横に並んでいた。それは恐らく提灯を蔵しまつてあるのだらうが、木箱の上に厚い和紙張りを施され、その白地に黒々と染め抜かれた大きな紋はこれ又ふしぎに冴え冴えとした色調を以て浮び上つていた。ふだんは日中でもほの暗く、したがつて一様にうすい埃を被つて沈んでいるこれらの物が、今やいつせいに生き返つたやうに見えた。

    「おれは!――」

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