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「なに?」
彼は道平の息子で、且つ医者である。これほど病人にとつても周囲の者にとつても安心できることはなかつた。彼等は医者としても房一を信頼し切つていた。若し仮りに、房一が医者としての手落ちを来し、そのために死を招いたとしても、恐らく病人は安んじて瞑目したであらう。なにしろ、息子の手にかゝつていることだつた、これ以上の幸福があらうか――房一が診察している間ぢゆう、ぢつと身体を任かせ切りにしている道平の半開きの眼が、まだ口が利けないので、房一が何か云ふたびにうなづいて見せるその弱々しい、うるんだ眼が、さう云つていた。
房一は目顔で笑ひながら何度もうなづいた。やつと安心したやうに、徳次はしばらく見送つていた後で、大股に自分の船の所へもどつて行つた。
「もう一人後から来るかもしれませんが、そしたらよろしく頼んます」
徳次は房一から聞かれるまゝに子供の数を答へたり、それから又思ひついて水神淵へ出る近路のことを念入りに教へたりした。無我夢中に近い気持だつた。だが、その間にも彼はあの眩しげな目つきで、時々房一を眺めた。するうち彼には、自分にとつてはたゞ漠然と雲をつかむやうにしか思へない「年月」が房一の中にはつきり現れているのを感じた。それは医師高間房一だつた。この何かしら驚くべき変化の中には、徳次すら一役買つているやうに思はれた。
年は五十過ぎ位、見るからに小柄な貧弱きはまる痩せつぽちだが、何となく自分の身体を大きく見せようと絶えず心を配つているらしい足の踏ん張り方をしていた。手足も、顔の皮膚もうすく日焼けがし、乾いて、骨にくつついていた。が、頭髪はそれとは反対に驚くほど真黒で、きちんと櫛目を入れて分けられ、鼻下にはやはり念入りに短く刈りこんだ漆黒の髭をはやしていた。それは何かちぐはぐな印象で、中農の地主にも見え、町役場の収入役のやうでもあり、又どこかに馬喰ばくらう臭いところもあつた。だが、一貫して現はれているのは、小柄の者がさうである場合特に目立つ、そして見る者の咽喉のあたりを痒かゆくさせるやうな、あの横柄わうへいさであつた。
が、徳次は話したいことが一杯あつた。彼には女の子ばかりが四人もあつた。一人いる男の子はまだ赤ん坊だつた。それらは全くうようよと、徳次の知らない間に生れて来たやうな気がした。家の中を葡はひずりまはり、土間にころげ落ち彼の足にとりつき、彼を「お父ちやん」と呼んだり、「お父う」と罵つたりする。彼は子供を可愛がつているのか煩うるさがつているのか、自分でも判らなかつた。彼にはあらゆることが矍鑠くわくしやくとした老船頭だつた父親がいつの間にか耄碌もうろくしてよろよろ歩くやうになつたこと、一番上の姉娘が或る時ひどい熱を出してから頭が変になつていまだに「八文」であること、何の気なしに押した無尽の請判で百円といふ大金を支払はされるのだと聞いて小半年の間世話人のところに文句を捻ねぢこんで手こずらせたこと、それらすべてのことが徳次には一体どういふわけで起きたのかさつぱり判らなかつた。それは漠然とした年月だつた。たゞ何かしらこみ入つて、一杯つまつて、過ぎてしまへば片つぱしから一向に手答へのないものになる年月だつた。それをどんな風に話したらいゝものだらう。
殆どおたがひの鼻と鼻とがくつつきさうな位置のまゝ房一はいやでも相手の黒味がかつた眼玉と向き合はなければならなかつた。それはこつちを見ている間中、ちつとも目瞬またゝきをしないふしぎな眼玉だつた。その上、あんまりしつこく見られるので、嫌でも気づかずにはいられなかつたのだが、その黒味は何だか鼠のそれを思はせるやうな薄濁りのしたぼやけた黒味で、そいつが墨のにじんだみたいに眼玉中にひろがつているのである。房一は何かの本で、眼はその人の心を映す鏡だ、といふことを読んだことがある。別にそれを覚えていたわけではないが、その眼玉は一体何を考へているのか判らないやうな気が房一にはした。
いかにも得心した風に深くうなづいた道平はそれで又ゆつくりと脇きへどいて、さつきからやつていた通りの見物人にもどつた。彼はいつもの癖である尻はしよりの恰好で、真黒に日焼けした両脚を突き出したまゝ立つていた。今朝彼は河向ふの自分の家から息子の医者の家ができ上る様子を見に来たのだ。そのまゝ尻はしよりを下さないのである。老年の柔和さの現れたうるみのある眼をはつきりと開けて、別に口出しするわけでもない、たゞ房一の傍にいてその云ふことを聞き、することを眺めていた。その小ぢんまりとした体躯からは傍に立つている房一を想像させるものは見られなかつたが、足の短い、肩の張つた房一の身体の特長から道平の方に目をやると、ふしぎと何かしら似ていた。それはたゞ小さくて、皺が寄つているだけだつた。
対島つしま沖で日露海戦が行はれ、敗残艦の一部が日本海沿岸のこの地方の沖合までのがれて来て沈没したのは十年ほど前のことである。乗員は白旗を掲げてボートに分乗し、沿岸の砂浜に着いた。その前、海戦の最中には海岸附近の人家の障子が断続的にとゞろく砲声で鈍く不気味に響きつゞけた。もとより海戦が行はれていると知るわけもないので、たゞ漠然と不安だつたが、その気分の抜け切らないうちに、たとへ白旗を掲げているとは云へ突然現れたロシア兵達の姿に、海岸の住民は一時かなりびつくりしたものである。間もなく近くの兵営から軍隊が駆けつけて、それ等の投降兵を吉賀町附近の寺院に一時的に収容した。彼等がそこにいる間、附近の人達は毎日弁当持ちに草鞋わらぢばきで押すな押すなで見物に出掛けた。その当時、徳次は二十前の若者だつた。
「やつぱり、あんただつた」
一番はしの家はよそから流れて来た浄瑠璃語りの家である。宵のうちはその障子に人影が写り「デデンデン」という三味線の撥音と下手な嗚咽の歌が聞こえて来る。
それは莫迦げたことにちがひなかつた。だが、その莫迦げた習慣の中に今房一は身を以て入りつゝあるのを感じた。
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