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徳次は笊を差出した。
「御機嫌だつたね」
「もう遅いんですよ、おぢいさん。泊つてつたらどうです」
この路をそんな恰好で通るのは近くにある営林区署の役人か発電所の技手ぐらいのものだつた。だが、そのいづれでもないことは、段々近づくにつれて目につくあまり見かけない猪首のやうな肩つきと、自転車のハンドルにしがみついたやうに見えるその円まつちい体躯、それらの印象の与へるひどく不器用な乗り方などによつて、すぐと知ることができた。
と、今やうやく気づいた盛子が叫び声をあげた。
房一はまだ考へ深さうにしていた。
築地には四五本の木材が立てかけられて、玄関に通じる石畳の上には鉋屑が一杯に散らばつていた。その白いのや紅味がかつた真新しい木の色はふしぎな生気をこの家に与へていた。あの低い大きな屋根がぐつと身を起したやうにさへ見える。
「よく来てくれましたな。けふはゆつくりしてもかまはんのでせう。あんたは碁を打ちますか。――さうですか、御存知ないですか。それはちよつと。まア、しかし、こんなものは覚えん方がいゝかもしれませんなあ」
「理窟があるやうな無いやうな話でね。こゝの隠居は相手にならなかつたから、たうとう訴訟といふ所まで来たんだらうが、何しろ相沢の先代とこゝの隠居とは兄弟だしね、――どんな理窟があるにしてもあまり賞めた事ぢやないね」
喜作と別れてから、房一は歩きにくい足もとの円石に目を落して何となく考へこんだ風に歩いて行つた。
彼は眩しさうに眼をしかめた。それから、酔つて居なくても同じやうにふらりとした足つきで河の方へつゞく露地の間へ入らうとした。そのとき、何を思つたか足をとめて、路上に突立つたまゝ上手の方を眺めた。
が、徳次は話したいことが一杯あつた。彼には女の子ばかりが四人もあつた。一人いる男の子はまだ赤ん坊だつた。それらは全くうようよと、徳次の知らない間に生れて来たやうな気がした。家の中を葡はひずりまはり、土間にころげ落ち彼の足にとりつき、彼を「お父ちやん」と呼んだり、「お父う」と罵つたりする。彼は子供を可愛がつているのか煩うるさがつているのか、自分でも判らなかつた。彼にはあらゆることが矍鑠くわくしやくとした老船頭だつた父親がいつの間にか耄碌もうろくしてよろよろ歩くやうになつたこと、一番上の姉娘が或る時ひどい熱を出してから頭が変になつていまだに「八文」であること、何の気なしに押した無尽の請判で百円といふ大金を支払はされるのだと聞いて小半年の間世話人のところに文句を捻ねぢこんで手こずらせたこと、それらすべてのことが徳次には一体どういふわけで起きたのかさつぱり判らなかつた。それは漠然とした年月だつた。たゞ何かしらこみ入つて、一杯つまつて、過ぎてしまへば片つぱしから一向に手答へのないものになる年月だつた。それをどんな風に話したらいゝものだらう。
「徳さんが新しいのを掛けてくれるまで待つていた方がいいかもしれませんね、これは」
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