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    房一は面喰つて、ぽかんと口を開けた。

    結婚してもう三四年になるが、いまだに出たり入つたりを繰り返している茂子は、練吉にとつては三度目の妻だつた。最初のは男の子を一人のこして去つた。二度目は半年もたゝないうちに大石の方から帰した。今度の茂子の場合だつて、当人も居辛からうが、大石の側でも面白くはない、どうでもいゝと云つた調子であつた。そして、ふしぎなことにはかういふ態度は大石の正文老夫婦から出ているので、練吉の方は吾不関焉われくわんせずえんといつた風があることだつた。

    徳次は急に目くばせをした。

    一人前の医者になるといふことは、何等の学歴もなく又資もとでもなかつた房一にとつては困難をきはめた仕事であり、それだけに心の全部を惹きつけていたものだつたが、今その峠に達してみると、更に前方に見えて来たいくつかの峠が彼の新しい野心を惹きはじめていた。その野心の目的といふものも、彼が東京の市内で散見することのあつた大病院の院長とか、或ひは病理学研究の名声赫々たる博士とか、さういふ粗雑なものにすぎなかつたが、それは名声が彼にとつて魅力があり、院長の威厳が彼に好もしく思はれたのではなく何かしら内部に溢れる野気が単にさういふ粗雑な形の中にその吐け口を見つけようとしたのであつた。

    腹に物がつめこまれると、さつきはあんなにへたばつてしまつた神主の一隊もどうにか元気がついたやうであつた。これからいよいよ町通りである。自分の家の前を、妻子や使用人達がずらりと見物している中を、しやちこ張つて、堂々と歩かねばならないのである。で、大半はいつのまにか草履や下駄にはきかへていたものの、まだあの木箱をひきずるがらがらいふ音をたてて、紅い色の滲んだ、紙衣の神官達は、笏を前に構へ、気を張つて真正面を向いたまゝ繰り出して来た。俳優で云へば、まさに花道の出にさしかかつて来たところである。

    「や、失礼、おさきに」

    と、道平は明かに盛子に気兼ねをしているらしかつた。

    「まあ、葉書でざつと町内に出しときましたがね」

    房一は怒つたやうな嘲あざけるやうな調子であつた。その顔は何故か黒ずんで見えた。そして、目がぎらついていた。

    これがこの小さな字である。

    「さうです、小倉組の方ですな」

    しかし、いづれにしても、房一がかういふ率直な頼み方に出たことは練吉の気をよくした。彼は熱心に診た。この結果が房一の診断と大差なかつたにもせよ、たゞそれだけでほつとした面持になつた房一を見ると、練吉は何かしらいゝことをしたやうな気にもなつた。軽蔑とまではいかないが、たとへ心ひそかに房一を医者として自分と同列に考へなかつたとは云へ、そして、肉親を診る時に心が乱れて困るといふ房一の打明けををかしがりはしていたものの、この房一の隠すところのない当惑の様子、その正直さは、知らず知らず練吉を同化させるやうなものを持つていた。

    房一はその玄関土間に足を踏み入れて、

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