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    「どうも、済んまへんでした」

    今頃になつて、男はさう訊き、盛子がそれに答へる前に、ひとりでうなづいていた。

    さう云ふ房一の前に立つて、徳次は子供が手いたづらをするのとそつくりな様子で傍にひよろ長く生えていた草を片手でむしりとり、口にくはへた。さつきはじめて傍へ近よつたときのやうに、彼の顔は又紅らみどこか力んでいる表情を浮かべながら、口のあたりをもごもごさせた。

    「往診?ふむ、ふむ」

    うまい工合だと感じた房一はすかさず云つた。

    見る見る癇癪かんしやくを起しさうになつた練吉は、その時ふと或ることを思ひ出して黙つた。

    「徳次」だの、「橋本屋」だの、「殺されかゝつてる」、「小倉組」だのいふ言葉がきれぎれに耳に入つた。

    「あゝ、まだ持つてる!」

    「大きいやつだねえ」

    それはさうだ、永いことにちがひない、と房一はゆつくりと歩きつゞけた。多分、彼は彼で、自分のこれからの生涯を、その計りがたく、茫漠とした行手を見ていたのだらう。

    庄谷の細い眼が又微笑した。だが、その瞬間に現はれたほんの少しの人なつこさ、古い記憶のほのめきは、すぐ又大急ぎでどこかへ隠れこんで行くやうに見えた。

    徳次は房一がそれなり立去つて行つたものとばかり思ひこんだ。だからおれは知らん振りをしたかつたんだ、こつちでやきもきしても先方では毛ほども思つてやしないんだ。ちよつと頭を下げる、今日は、はい左様なら、だ。畜生め。――と、徳次は相手がちよつと自転車から降りただけでもうすつかり忘れてしまふところだつたこれまでの心外さをもう一度よび戻さうとつとめながら、口惜しさうに、半ばは呆然として房一の行つた方を眺めていた。

    木柵の男は、稍ひるんだ風に一寸黙つていたが、そんな風に怒鳴られることに慣れてもいず、又予期していなかつたらしく、押し返すやうに低いバスの音で云ひ返した。それはどこか、命令することに慣れた、威圧するやうな響きを含んでいた。

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